AI レビュー検索
平田義久 の検索結果(21〜30)
己の怪我の程度もわからない奴は戦いに関わるな

冨岡義勇がこのセリフを言った後に、嘴平伊之助は冨岡義勇を縄で木にくくりつけるんですよね。
ここだけだと笑えるシーンですが、実は命にかかわる戦いがありました。
那田蜘蛛山で鬼の父蜘蛛との戦いで、強さを見せつけられた嘴平伊之助。
巨大化した父蜘蛛につかまり、嘴平伊之助が死を覚悟した瞬間、冨岡義勇に助けられます。
一瞬で父蜘蛛を倒した冨岡義勇に、嘴平伊之助は戦いを挑みます。
そして木にくくりつけた嘴平伊之助に、この言葉をつぶやきました。
これからの戦いを見据え、ぶっきらぼうなセリフにも感じますが、彼なりに後輩を思いやる言葉と行動にも思えますね。
三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。武田信玄
その人の人格を端的に見極めるような名言「三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である」。
その言葉のとおり、同じことを聞いたり同じ注意をしたりした人が、その度に違う言葉を返してきたら、どの言葉を信用して良いのか分かりませんよね。
考え方や信念に一貫性がなく、その場しのぎの言葉を言っていると判断されると信頼を失ってしまいますので、もし心当たりがある方がいらっしゃったら、ご自身の言動や考え方を振り返ってみてはいかがでしょうか。
百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。武田信玄

ほとんどの人から好かれる人というのは、本当に良い人なのかと考えさせられる名言「百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず」。
人はそれぞれ異なる考え方や趣味趣向があり、その中で多くの人に好かれるには、自分を抑えて人に合わせていかないと難しいのではないでしょうか。
そうして本当の自分を隠している人は、良い人とは言い切れないですよね。
常に我が道を行く人も生きづらいのかもしれませんが、ある程度は自分の信念を主張する勇気が必要なことを教えてくれる言葉です。
1862年、島津久光の指示で尊攘夷志士が殺傷された事件が起こった、京都の旅館は次のうちどれでしょうか?NEW!
- 近江屋
- 池田屋
- 寺田屋
こたえを見る
寺田屋
1862年に起きた寺田屋事件は、薩摩藩の事実上の指導者であった島津久光の命により、過激な尊王攘夷派の志士たちが弾圧された事件です。久光は公武合体を推進しており、暴走する自藩の過激派を抑え込むためにこの強硬手段に出ました。この事件の舞台となったのが、京都の伏見にあった旅館「寺田屋」です。後に坂本龍馬が襲撃された事件も同じ旅館で起きていますが、島津久光が関わったのはこの1862年の事件となります。
松平容保が晩年に宮司を務めた、有名な神社は次のうちどこでしょうか?NEW!
- 日光東照宮
- 鶴岡八幡宮
- 伏見稲荷大社
こたえを見る
日光東照宮
松平容保は幕末の動乱期に会津藩主として幕府のために尽力し、戊辰戦争では新政府軍と激しく戦いました。戦後、しばらくの謹慎生活を経た後、1880年に日光東照宮の宮司に就任しました。徳川家康を祀る日光東照宮の宮司になることは、徳川家への強い忠誠心を持っていた容保にとって非常に名誉なことであり、晩年は心穏やかに神職としての日々を送ったと言われています。
信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。武田信玄
命令したり押さえつけるのではなく、まず自分が心を開くことが大切だと教えてくれる名言「信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ」。
人は誰かに何かをしてもらいたい時、どうしても自分が求めることが先行してしまいがちですよね。
親子関係や仕事の現場など、特に上の立場の人が思ってしまいがちなのではないでしょうか。
まずは相手を信頼することこそが良好な人間関係を作り出す事を教えてくれる、現代社会においてもリンクする名言です。
まだやれる!!しっかりしろ!!最期まで水柱として恥じぬ戦いを!!
鬼舞辻無惨との戦いの中で、自分自身を鼓舞するために言った義勇の名ゼリフです。
義勇は自分の無力さ原因で親友を亡くした経験をしており、その後ろめたさから自分が水柱であることを認めていませんでした。
しかし、無惨との戦いの最中では一転し、自身が水柱であることを誇りに思っているかのようなこの発言が飛び出します。
戦いのダメージが蓄積し限界が近づいた義勇ですが、仲間の助けもあって、この言葉とともに再び無惨へと立ち向かうのでした。

