ビートルズの記念すべきデビュー曲は「ラブ・ミー・ドゥ」です。
ところが、ひょっとしたら、彼らは、違う曲でデビューしていたかもしれないというお話です。
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ラブ・ミー・ドゥのレコーディング
1962年6月6日にオーディションを受けた時にこの曲をレコーディングしました。
この時のドラマーはピート・ベストでした。
彼らは、この曲でデビューしたいと考え、レコーディングに臨みました。
しかし、その前にプロデューサーのジョージ・マーティンは、レコーディングの時はセッション・ドラマーを使うと告げていました。
セッション・ドラマーというのは、何らかの事情でドラマーが調達できなかった時に備えて、代わりに演奏するドラマーのことです。
彼は、バンドにおけるドラムの重要性を認識していて、オーディションの時のピートのドラム・テクニックに不満を抱いていたのです。
彼としては、プロデューサーとして当然の判断をしただけなのですが、このことが後にビートルズに大きな波紋を広げることになりました。
ピート・ベスト解雇
細かい経緯はまたいつかお話ししますが、ビートルズは、ピートを解雇してしまいます。
代わりに加入したのがリンゴ・スターです。
9月4日、マーティンは、レコーディングでスタジオに現れたリンゴを見て驚きました。
彼は、ドラマーが交代したことを知らなかったのです。
リンゴとは初対面でしたし、実力も分からない新人にレコーディングさせるわけにはいかないと考えましたが、追い返すわけにもいかず、そのままレコーディングさせました。
しかし、さすがのリンゴもこの時は初のスタジオ収録で緊張し、普段の実力を発揮できませんでした。
マーティンはこのリンゴのドラムにも不満で、結局、9月11日にセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトを呼んでレコーディングしました。
つまり、珍しいことにこの曲は、ドラマーが異なる3つのバージョンがあることになります。
音源があるので聴き比べてみてください。
最初はピート、次がリンゴ、最後がホワイトのドラムです。
https://www.youtube.com/watch?v=eWnklhOCVmc
マーティンは違う曲を提案した
ビートルズは、いよいよシングル・レコードをリリースしてメジャー・デビューすることになったわけですが、ここでマーティンが意外な提案をしました。
それは、デビュー曲をラブ・ミー・ドゥではなく、他のコンポーザーが制作した「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」という曲にしてはどうかというものでした。
曲は、すでに完成していてガイド演奏まで収録が終わっていたので、後はそのガイド演奏通りにレコーディングすれば終わりでこんな楽な仕事はありません。
これがそのガイド演奏ですが、いかにも当時の歌手が歌いそうな曲ですね。
マーティンは、この曲ならチャートNo1を確実に取れるだろうから、彼らのデビューを華々しく飾ってやれるだろうと考えたのです。
それにこの当時はまだシンガーソングライターというスタイルは珍しく、コンポーザーと演奏者は別々というのが一般的でした。
ビートルズの成功でシンガーソングライターというスタイルが普及したのです。
ですから、マーティンの提案は、当時の常識に沿ったものだったのです。
プロデューサーの指示ですから、ビートルズもそれに従って一応レコーディングはしました。
その音源も残されていますが、あんまり気乗りがしていない感じが伝わってきます。
彼らがレコーディングしたバージョンです。
しかし、そこはさすがにビートルズ。
自分たちなりにアレンジを加えて彼ららしい曲調に仕上げています。
プロデューサーの提案を蹴とばした!
マーティンの好意に喜んで飛びつくかと思いきや、ポールは、マーティンに対し、「これは良い曲かもしれませんが、僕たちには似合いません、僕たちはもっと違う曲をやりたいんです」とはっきり伝えました。
こともあろうにまだレコードも出していない新人の分際で、しかも、プロデューサーがわざわざ彼らにチャートNo1を取らせてやろうという親心から提供してくれた曲を蹴とばすなんて大した度胸です。
しかし、そこはマーティンも器がでかい。
並みのプロデューサーならカンカンに怒りそうなところですが「それなら、この曲は他のミュージシャンに回そう」とあっさり受け入れたのです。
実際、この曲は、1963年にジェリー&ザ・ペースメイカーズがリリースし、マーティンが予想した通りチャートNo1を取りました。
しかし、今、この曲もバンドも知っている人はどれだけいるでしょうか?
当時、イギリス国内に住んでいた中高年層の人くらいでしょう。
面白いのは、ほとんどビートルズのアレンジを頂戴しているところですね。
「ラブ・ミー・ドゥ」ついにリリース!
10月5日ついに待望のシングル、ラブ・ミー・ドゥがリリースされました。
これもまた当時の混乱した状況を物語っていますが、初版は、リンゴがドラムを演奏したバージョンだったものの、再版からホワイトのバージョンに差し替えられ、ファースト・アルバムの「プリーズ・プリーズ・ミー」でもそれが使用されました。
そして、これがその曲です。
この作品は、チャートでは17位にとどまりましたが、デビューとしては上々の出来です。
パーロフォンレコードの親会社はEMIレコードという大手でしたが、パーロフォン自体は小さな子会社でしたから、とてもプロモーションなどできなかったからです。
しかも、マーティンが専門に手掛けていたのはコメディーが中心で、ポピュラーやクラシックはあまり扱っていなかったんです。
社内でもマーティンの存在はあまり重要視されておらず、彼がビートルズをプロデュースし始めたことについても「ロクな仕事もしていないヤツが売れないバンドをものにしようとしている」なんて陰口をたたかれていたのです。
しかし、彼らの曲が17位にランクインしたことで、会社の態度は手のひらを返したように変わりました。
ある日、ジョージ・ハリスンがEMIスタジオの玄関を訪れると、それまでは素っ気ない態度だった社員が「やあ、入りなよ」と笑顔で招き入れてくれたのです。
このようにビートルズは、まずまずのデビューを飾ったのですが、後にこれはマネージャーのブライアン・エプスタインが、チャートを押し上げるためにレコードを買い占めたからだとのうわさが流れました。
確かに、リバプール付近のレコード店での売り上げが多かったのは事実ですが、それは単なる都市伝説の類です。
実は、イギリス北西部のローカルテレビ局の「ピープル・アンド・プレイスィズ」という番組でこの作品がリリース直後の10月17日に放映されたんです。
ラブ・ミー・ドゥの売上げが伸びたのはそれが大いに貢献したと思われます。
また、デビュー前からの地元のファンの多くが買ったことも考えられます。
その番組は、その後も有望な若手のミュージシャンに目を付け、次々と世に送り出しました。
ローリング・ストーンズもこの番組を足掛かりに世界的なバンドへ成長していったのです。
ライタープロフィール
ビートルズの熱狂的ファン
和田晋司
大阪府出身 ビートルズのファン歴ウン十年。
色んなものに手を出しましたが、唯一続いている趣味がこれです。
ビートルズの語り部として彼らの偉大さを後世に伝えていきたいと思っています。
ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ