ジョン・レノンとポール・マッカートニー、あの曲を作ったのはどっちだ?
ビートルズのほとんどの楽曲には「レノン=マッカートニー」というクレジットが付けられています。
つまり、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの共作ということですね。
しかし、必ずしも完全な共作ばかりではなかったのです。
今回は、そのことについてお話します。
2人の役割は曲によってまちまちだった
ビートルズについてあまり詳しくない方は、レノン・マッカートニーとクレジットがあれば、すべて2人の共作だと思うでしょう。
確かに、初期は、本当に2人が額を寄せ合うようにして作ることが多かったのです。
「シー・ラブズ・ユー」などはその典型ですね。
でも、実際には、2人の役割は曲によってまちまちでした。
1人だけですべてを作った曲もたくさんある一方で、初期には、オリジナルをどちらかが作成し、他方がそれをサポートするといったスタイルが多かったようです。
彼らは、殺人的なスケジュールの中で、ホテルの一室や移動中もペンを走らせ、せっせと作っていました。
しかも、自分たちで演奏するためだけではなく、発注を受けて他のミュージシャンに提供する楽曲も数多く制作していたのです。
しかし、後期になってくると、1人だけで作った曲がほとんどになります。
なぜ、レノン=マッカートニーになったのか?
そもそも、レノン=マッカートニーというクレジットを付けることにしたのは、2人がまだ15〜16歳の青年時代に取り決めたことでした。
ジェローム・リーバーとマイク・ストーラーが「リーバー&ストーラー」というコンビを組んで、「ハウンド・ドッグ」「スタンド・バイ・ミー」などといった後世に残る歴史的名曲を数多く制作しており、それにあやかったのです。
ただ、レノン=マッカートニーと違う点は、ストーラーが作曲、リーバーが作詞とハッキリ分業にしていたことです。
レノン=マッカートニーは、2人とも作詞も作曲も両方をこなしました。
プロとしてデビューするときに、マネージャーのブライアン・エプスタインとジョンとポールの3人でクレジットをどうするか話し合ったのです。
ジョンが「レノン・アンド・マッカートニー」と主張したのに対し、ポールは「マッカートニー・アンド・レノン」でどうかと提案しました。
ジョンも一時は妥協して、メインで制作した方の名前を先にするという案も了承しました。
しかし、それもうやむやになってしまい、結局、レノン=マッカートニーで統一されることになりました。
レノン=マッカートニーの方が響きが良いし、スペルもLの方がMより先に来るし、ゴロが良いということで、ジョンに押し切られたようです。
でも、ジョンがポールより年上で、リーダーだったからというのが本当の理由でしょうね(笑)。
ハッキリしている曲
- 共作 フロム・ミー・トゥ・ユー、アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンドなど
- 1人がメインで制作 ア・ハード・デイズ・ナイト、ドライヴ・マイ・カーなど
- 1人だけで制作 ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー、ペニーレインなど
ビートルズの場合、必ずしも統一されていたわけではありませんが、「メインのコンポーザーがリードボーカルを務める」というお約束がありました。
ですから、誰がメインボーカルかさえ分かれば大体は判断できます。
しかし、中にははっきりしない曲があるんです。
はっきりしない曲
チケット・トゥ・ライド(涙の乗車券)
https://www.youtube.com/watch?v=DppyI-SnKwo
ジョンは、生涯の最後に近いインタビューで、自分が主にこの曲を書いたと主張しました。
「この曲は、初期のヘビー・メタル的なレコードのひとつだ。
ポールの協力は、リンゴのドラムぐらいのものさ」
一方、ポールは、ジョンと協力してこの曲を書いたと主張しています。
「この曲は、2人で協力して書いたんだ。
レコードを聴けば分かるけど、ジョンがメロディーを歌い、僕がハーモニーを付けている。
僕たちは、共同で曲を作っても、しばしばそんな風に演奏してきた。
ジョンがこの曲を歌ったから、人は彼がこの曲の60%を作ったと思うかもしれない。
やらなきゃいけないことがたくさんあったけど、とても良い曲になった。
僕たちは、一緒に座って曲作りを始めたけど、ジョンはあまり口を挟まなかったよ。
曲作りにはたっぷり3時間はかかったな。
曲が出来上がったころには、歌詞もハーモニーもほとんど完成していた。
ほんの少しの部分を除いてね」
両者の主張が真っ向から対立していますね。
どちらかが記憶違いまたは勘違いをしているのは確実ですが、今となってはどちらが正しいのかは分かりません。
イン・マイ・ライフ
ジョンは、ほとんどを自分が作り、ミドルエイト(Bメロ)をポールが手伝ったと語っています。
これに対しポールは、ジョンの歌詞は初めの部分しかできていなくて、後を引き継いで自分が大部分を作ったと語っています。
「メロディは全部僕が書いた覚えがある。
分析してみても、まさに僕らしい曲だと思う。
歌詞ももちろん作ったけど、曲の構成はいかにも僕らしい。
ジョンには『お茶でも飲んで休んでれば。
10分あれば一人で仕上げるから』と言った記憶がある。
だから、この曲はジョンのインスピレーションを基に、僕のメロディとギターリフでできた曲だ。
断言したくはないけど、僕の記憶は以上の通り。
二人で仕上げたすてきな曲を、ジョンが歌ったわけさ」
ワン・アフター・909
この曲が公式に収録されたのは、1970年にリリースされたアルバム「レット・イット・ビー」ですが、時期ははっきりしないものの、ビートルズがメジャーデビューするより前に既に出来上がっていました。
ポールは、この曲をジョンのアイデアを元に共同で制作したと主張しています。
彼は、彼らにとって音楽上のヒーローともいえるアメリカ鉄道を歌った曲のスタイルで書こうとしたと説明しました。
「ジョンと僕は、ブルージーな貨物列車の歌を書こうとしていたっていう素晴らしい思い出があるんだ。
そのころ、ミッドナイト・スペシャル、フライト・トレイン、ロック・アイランド・ラインのようなたくさんの良い曲があったんだ。
それでOne After 909を作ったってわけさ。
彼女は、909番には乗らずに次の列車に乗る。
正直に言うと、イギリスの鉄道じゃなくて、オマハ・スーパーチーフ(かつてシカゴからロサンゼルスまで運航していたアメリカの大陸横断鉄道)が頭にあったんだ」
ところが、ジョンは単独で制作したと語っています。
「これは、17歳か18歳のときに書いたんだ。
僕たちは、大抵別々に曲を書いたんだけど、時には一緒に書いたりもした。
楽しかったからね。
よく言われたもんさ、君たちは、まるで一緒に仕事をしているみたいにアルバムや曲を次から次へと作ってるってね」
エリナ・リグビー
ポールは、この曲の歌詞を自分が8割、ジョンが2割ぐらいの割合で制作したと語っています。
しかし、ジョンは、歌詞の7割を自分が書いたと主張しています。
(リバプールにあるエリナ・リグビーの記念像)
歌詞の中に「マッケンジー神父」が登場しますが、ジョンは、「マッカートニー神父」とすればいいと提案しました。
しかし、「Father Mccartney」ではポールの父親そのものになってしまうので、さすがにポールは反対しました。
それで、2人で電話帳を引っ張り出し、マッケンジーという名前を見つけて採用したのです。
ビートルズ解散後
ポールは、1996年にビートルズ解散後に制作されたアルバムなど、ビートルズの歴史を語るドキュメンタリー・シリーズ「アンソロジー」がリリースされた時、メインのコンポーザーの名前を最初に持ってきてはどうかと提案しました。
しかし、ヨーコに拒否され(ジョンはもう亡くなっていました)、彼の願いはかないませんでした。
ポールがクレジットの変更を希望していることがメディアで報じられると、「ジョンが亡くなったのを良いことに、彼の手柄を横取りしようとしている」というような批判も一部から出されました。
「自分が1人で作った曲は、せめて自分の名前を先にして欲しい」というポールの気持ちも理解できないわけではありませんが、半世紀もたった今となっては証明することは困難です。
仮に証明ができたとしても、世界中にさん然と輝き続けてきた「レノン=マッカートニー」というプラチナ・クレジットを今になって変更することは混乱を招くだけですし、その必要もないでしょう。
ジョンが1人で作った曲でも同じようにクレジットされているので、もうこのままで良いのではないでしょうか?