ビートルズがオーディションに落ちたときの話
機材の貧弱さ
ブライアンは、ビートルズの演奏をデモ・テープに録音してそれをレコード会社に持ち込みました。
しかし、どこも興味を示しませんでした。
ただ、これは一概にレコード会社ばかりを責められない面もあります。
というのも全員が労働者階級出身でお金がなく、持っていた機材が安物ばかりでしかも使い込んでいたため、あまりにサウンドのクオリティーが低かったからです。
特にベースのアンプは、雑音の方が大きいくらいひどいものでした。
おまけにそれをテープに録音したサウンドを聴くんですから、こりゃダメだと思われても仕方なかったでしょう。
デッカ・レコードのオーディションが決まる
それでもようやくビートルズは、大手のレコード会社であるデッカ・レコードのオーディションを受けるところまでこぎ着けました。
彼らは、キャバーン・クラブの空き時間で必死に練習を続けました。
しかし、セットリストをどうするかでブライアンと意見が対立したのです。
ビートルズは、得意のロックンロールを多めに入れるべきだと主張したのですが、ブライアンは、それでは大人の会社関係者に気に入られないからとバラード系の曲を多めにするよう主張したのです。
彼は、音楽に関してはド素人でしたが、彼がオーディションをセッティングしたのですから、ビートルズも従わざるを得ませんでした。
オーディションを受ける
1962年1月1日、ビートルズは、車に機材を積んでローディーのニール・アスピノールの運転でリバプールからロンドンを目指しました。
しかし、あいにくの大雪に見舞われ、ニールもロンドンの地理に詳しくなかったため道に迷ってしまい、スタジオに着いたのはオーディションが始まるギリギリの時間でした。
ですからリハーサルはおろか、音合わせをする時間もありません。
これが当時のデッカ・レコードです。
しかも、ビートルズが持ち込んだ機材があまりにショボいため、デッカの社員がスタジオにある機材を使うようすすめたのですが、彼らはそれで気分を害し、拒否しました。
確かに、誰でも自分が愛用している機材にケチをつけられるのは不愉快ですが、この時ばかりは社員の言ったことの方が正しかったのです。
まあ、それでも何とかセッティングを終え、演奏を開始することになりました。
しかし、初めてのスタジオ収録、しかもレコード会社の契約が決まるかどうかのオーディションということで、流石の彼らも緊張しました。
あの強気で鳴らすジョン・レノンですら緊張で顔がやや青白くなっていたのです。
おまけにセット・リストは、彼らの得意なロックンロールが少なく、演奏を開始しても途中でミスって止めてしまった曲もありました。
それにやはり機材の貧弱さもたたり、決して良いパフォーマンスだったとはいえませんでした。
それでも全部の曲の収録を終え、彼らはホッとしました。
そして、確信こそなかったものの、何とか合格はできたのではないかと思ったのです。
これがその時に収録された音源です。
https://www.youtube.com/watch?v=TTMlZxHk938
オーディションに落ちた!
しかし、オーディションの結果は不合格という厳しいものでした。
社長のディック・ロウは、ブライアンに対して冷たくこう言い放ちました。
「もうギター・グループは消えゆく運命ですよ、エプスタインさん」
この言葉は、ビートルズの歴史に深く刻み込まれることになります。
これに対しブライアンは「私は、ビートルズがプレスリーを超えるミュージシャンになると信じています」と涙ながらに抗議しましたが、一度下された決定を覆すことはできませんでした。
この人物がディック・ロウです。
そして、その当時の様子を再現したシーンがこれです。
しかし、実は、この判断を下したのはロウではなく、部下のスミスでした。
彼は、ビートルズともう1組のバンドの両方と契約すべきだと進言しましたが、ロウからどちらか1つに絞れと指示され、迷った揚げ句、地元のロンドンのバンドを選択してしまったのです。
ロウは、ビートルズの演奏すら聞かず、部下の進言を鵜呑み(うのみ)にして、結果的には誤った判断を下してしまいます。
デッカ・レコードがビートルズをオーディションで落としたことは、音楽史上に残る重大な判断ミスであったと後世にまで語り継がれることになります。
そして、ロウ自身も「ビートルズを蹴った男」という不名誉なレッテルを貼られてしまいました。
ダイヤモンドの原石はどこに転がっているか分かりません。
そして、オーディションは、それを発見する貴重な機会です。
しかし、この頃は、まだそれ程の認識はありませんでした。
この失敗が次第に大きく取り上げられるにつれ、オーディションの重要性が認識されるようになりました。
一方、ビートルズもこの結果にひどく落ち込みました。
そして、自分たちが主張していたセット・リストなら合格できたはずだ、これからは音楽のことには口を出すなとブライアンに釘を刺したのです。
捨てる神あれば拾う神あり
しかし、結果的には不合格となったものの、デッカのオーディションを受けたことは、ムダではなかったのです。
というのも、彼らは、設備の整ったスタジオの最新の機材で収録したテープを手に入れることができたからです。
そして、ブライアンは、友人であるレコード店長のすすめで、それをオープン・リール・テープから持ち運びやすいレコードにプレスしました。
そのレコードを聴いたレコーディング・エンジニアが、そこから流れるサウンドがあまりに素晴らしいこと、しかもオリジナルが3曲も含まれていることに驚き、すぐに音楽関係の書籍を出版している会社を紹介しました。
しかし、ブライアンの目的は、あくまでレコード会社と契約を結ぶことでしたから、その話には乗らなかったのですが、そのつながりでEMIレコードの子会社であるパーロフォンレコードのプロデューサー、ジョージ・マーティンが興味を示し、オーディションを受けることができたのです。
パーロフォン・レコードのオーディション
ビートルズは、1962年6月6日にEMIの子会社であるパーロフォン・レコードのオーディションを受けました。
今度失敗したら2度とチャンスは訪れないのは分かっていましたから、彼らも必死で練習し、スタジオにも早目に到着しました。
準備万端を整えて収録に臨んだのですが、デッカの時よりは良かったものの、やはり機材が貧弱なために満足のいく結果ではありませんでした。
そして、収録が終わった後、マーティンは、彼らを別室へ呼んで機材の貧弱さなどについてあれこれダメ出ししました。
彼らは、憮然(ぶぜん)とした表情で貧乏ゆすりをしたり、お互いに目配せをしたりしながら、黙って聞いていました。
マーティンが「君たちはさっきからずっと黙っているが、何か私に言いたいことがあるんじゃないのかね?」と尋ねました。
すると、ジョージ・ハリスンが「ええ、あなたのネクタイが気に入りません。」とジョークで答えたのです。
これにはマーティンも大笑いし、一変に場の空気が和みました。
そして、しばらく話した後、彼らはリバプールへ帰って行ったのです。
その背中を見送りながらマーティンは、この破天荒な若者たちと契約したものかどうか考えあぐねていました。
そこで、部下のノーマン・スミスに「彼らのことをどう思うかね?」と尋ねたのです。
するとスミスは、「何だかうまく言えませんが、彼らにはとてつもない魅力を感じます。
私は、彼らと契約すべきだと思います」と答えました。
マーティンは、「分かった。
考えてみるよ。」と答え、しばらく考えた後に決断しました。
「ビートルズと契約しよう」
ついに契約へ
こうして、ビートルズとパーロフォンレコードは、1962年10月1日に正式に契約しました。
いよいよ彼らはスターへの階段を昇り始めたのです。