作曲家の船村徹氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
前回、日本の偉大な作曲家である船村徹氏が、世界で初めての才能に気づいたとの記事を寄稿しましたが、今回はその続編です。
前回:ビートルズの実力に気づいたのは日本人が世界で初めてだったかもしれない話
若干、前回の記事を修正することになりますが、ご了承ください。
1. 船村氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
船村氏の語った内容、当時の状況等を総合して考慮すると、同氏が世界で初めての才能に気づいたという事実は揺るがないと思います。
ただ、はっきりしないのは「それがいつどこであったか」という具体的な状況です。
私は、それがデビュー前にオーディションやコンテストを受けていた1961年頃ではなかったかと推測しました。
しかし、彼らが1962年6月6日にEMIでセッションをやった時ではないかとの考え方もあります。
そこで、この点について検討してみます。
2. 乏しい資料
まず2017年2月現在までのところ、イギリス国内でこのことに触れた資料は発見されていません。
日本の資料では、前回ご紹介した船村氏と大瀧詠一氏との対談および2002年5月22日に日本経済新聞に「私の履歴書」として掲載された船村氏のコラムが存在します(後に単行本として出版)。
これ以外の資料が未だ発見されていないため、この歴史的事実が起きた具体的な日時や場所が特定できないのです。
ですから、現存する資料と当時の状況から推理するよりほかありません。
3. 船村氏のヨーロッパ滞在
船村氏は、1961年3月から2年間ヨーロッパに滞在し、コペンハーゲンを拠点として各地を訪れました。
その中にはイギリスも含まれています。
問題を複雑にしているのは滞在期間の長さです。
ビートルズのメジャー・デビューの時期がすっぽりとこの期間に入っているんですね。
前回の記事では「遅くとも1960年から1961年」と推定していましたが、これは訂正させていただきます。
もっと、短期間であれば特定しやすいのですが、長期間に亘っているためにピンポイントで特定することが困難になっています。
しかも、他の日本人は同行していませんでしたからなおさらですね。
4. 決め手は「あの汚い4人組」という発言
それでも、何とかアプローチを試みてみましょう。
その際、決め手となるのは、船村氏が彼らを見た際の「あの汚い4人組」との発言です。
これが彼らの見た目のことを指しているのは明らかです。
彼らは、1962年3月からイタリア製のスタイリッシュなベノドーンスーツを着用していました。
それまでは黒の革ジャンでしたが、これでは当時も「不良」のイメージが強く、実際、地元やハンブルクでも一般の人からはあまり良い印象は持たれていませんでした。
船村氏がこの頃に彼らと出会っていたなら、まさに「あの汚い4人組」と言われても仕方なかったといえます。
5. ヘアスタイルのことだったのか?
一方、彼らは、ドラマーのピート・ベスト以外は、ヘアスタイルを当時としては奇抜な「モップトップ」、すなわちマッシュルーム・カットにしていました。
当時、男性は、頭髪をさっぱりと整髪するのが常識で、彼らのヘアスタイルは非常識なものだったのです。
船村氏がこの点を指して発言したとすれば説明はつきます。
6. それでもなお残る疑問
仮に船村氏がEMIで出会ったとすると、それでも多くの疑問がわいてきます。
1. 船村氏はVIPだった
船村氏は、EMIから国際映画祭のグランプリ受賞者として招待されたのですから、それほど仰々しいものではないフランクな訪問であったとしても、丁重な待遇を受けたはずです。
ですから、公式記録に何らかの記載が残っているでしょうし、記念写真くらいは撮影されたはずです。
しかしながら、公式記録はおろか、当時の関係者からも全くそのような証言は得られていないのです。
例えば、船村氏にどのミュージシャンが良いと尋ねたのは、当時EMIの社員だったロン・リチャーズだとされていますが、これほどのトピックを彼が一切語らなかったのは不可解としか言いようがありません。
2. オーディションではなくレコーディングだった
ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンが2016年11月に出版した「ザ・ビートルズ史」の日本語版で、この日のセッションについて詳細ははっきりしないとしながらも、あくまで彼らのファースト・シングルを制作するためのセッションであり、オーディションではなかったと断言しているのです。
しかし、それがもし1962年6月6日にEMIでセッションした日であれば、すでにスーツを着用していましたからこういう発言は出なかったのではないかと推察されます。
なぜなら、プロデューサーのジョージ・マーティンは、彼らの演奏をテープで聴いた時点ですでにパーロフォンとの契約を結んでいたからです。
仮にそれが正式な契約ではなく仮契約だったとしても、この日は、本格的なレコーディングのために機材がセッティングされていました。
そして、彼らは、確かにEMIスタジオを使用しましたが、それはあくまでパーロフォンがEMIの子会社であるという関係だったからです。
つまり、船村氏がEMIに招待されたからといって、それが出会いと直結するわけではなかったのです。
となると、船村氏が審査員として参加することはあり得なかったと言わざるを得ません。
3. 他のミュージシャンはいなかった
また、船村氏は、3~4組のミュージシャンがオーディションを受けたと語っていますが、この日、このスタジオでレコーディングしたのはビートルズだけです。
これらの事実を総合して考えると、船村氏が彼らと出会ったのはこの日ではなかった可能性が高いと思います。
7. では、いつどこでだったのか?
ここからは私の推理ですが、船村氏が彼らと出会ったのはEMIではなく、同氏がヨーロッパに移住した1961年3月からビートルズがスーツを着用するようになった1962年の3月までの間で、イギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと思います。
この当時の彼らは黒の革ジャンでしたから、この外見は、正に船村氏の「あの汚い4人組」という発言にピタリと当てはまります。
また、イギリス国内で開催されたオーディションやコンテストにはさまざまなものがあったでしょうが、少なくともプロミュージシャンを発掘するための審査員ともなれば、それなりの実績の持ち主でなければなれなかったはずです。
その点、船村氏ならその資格は十分だったと考えられます。
当時、日本人の海外渡航は制限されていましたから、なおさら「はるばる日本から来た超一流の音楽プロ」として注目を浴びたでしょう。
以上の理由から私は、船村氏が彼らと出会ったのはEMI本社ではなく、それ以前にイギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと推察します。
何の裏付けもない単なる推理に過ぎませんので、その点はご承知おきください。
8. 余談
私は、ルイソンに2017年2月21日にメールを送信し、船村氏が世界で初めて彼らの才能に気づいた可能性があると記しました。
すると、翌日に貴重な情報だと思う、提供してくれたことに感謝する、追加の情報を求めるかもしれないとの趣旨の返信がありました。
彼がこの情報に関心を示したのは、その価値の高さと彼にとっても初耳だったからでしょう。
船村氏は、パリのパテ・マルコーニから招待され、その時、あるギリシャ人の新人歌手を教育してほしいと依頼されました。
そして、船村氏は、その新人に音楽面での指導をし、彼は船村氏のことを「東洋の師匠」と呼んで敬愛しました。
彼は、やがてプロのミュージシャンとして反戦歌を歌うようになり、1969年、「Le Métèque」(邦題:異国の人)という曲を大ヒットさせ、一躍スターとなりました。
彼は、シンガーソングライターとして有名なジョルジュ・ムスタキです。
そうです。
船村氏は、ビートルズの才能に気づいただけでなく、海外の一流歌手まで育てたのです。