作曲家の船村徹氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
前回、日本の偉大な作曲家である船村徹氏が、世界で初めての才能に気づいたとの記事を寄稿しましたが、今回はその続編です。
前回:ビートルズの実力に気づいたのは日本人が世界で初めてだったかもしれない話
若干、前回の記事を修正することになりますが、ご了承ください。
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7. では、いつどこでだったのか?
ここからは私の推理ですが、船村氏が彼らと出会ったのはEMIではなく、同氏がヨーロッパに移住した1961年3月からビートルズがスーツを着用するようになった1962年の3月までの間で、イギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと思います。
この当時の彼らは黒の革ジャンでしたから、この外見は、正に船村氏の「あの汚い4人組」という発言にピタリと当てはまります。
また、イギリス国内で開催されたオーディションやコンテストにはさまざまなものがあったでしょうが、少なくともプロミュージシャンを発掘するための審査員ともなれば、それなりの実績の持ち主でなければなれなかったはずです。
その点、船村氏ならその資格は十分だったと考えられます。
当時、日本人の海外渡航は制限されていましたから、なおさら「はるばる日本から来た超一流の音楽プロ」として注目を浴びたでしょう。
以上の理由から私は、船村氏が彼らと出会ったのはEMI本社ではなく、それ以前にイギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと推察します。
何の裏付けもない単なる推理に過ぎませんので、その点はご承知おきください。
8. 余談
私は、ルイソンに2017年2月21日にメールを送信し、船村氏が世界で初めて彼らの才能に気づいた可能性があると記しました。
すると、翌日に貴重な情報だと思う、提供してくれたことに感謝する、追加の情報を求めるかもしれないとの趣旨の返信がありました。
彼がこの情報に関心を示したのは、その価値の高さと彼にとっても初耳だったからでしょう。
船村氏は、パリのパテ・マルコーニから招待され、その時、あるギリシャ人の新人歌手を教育してほしいと依頼されました。
そして、船村氏は、その新人に音楽面での指導をし、彼は船村氏のことを「東洋の師匠」と呼んで敬愛しました。
彼は、やがてプロのミュージシャンとして反戦歌を歌うようになり、1969年、「Le Métèque」(邦題:異国の人)という曲を大ヒットさせ、一躍スターとなりました。
彼は、シンガーソングライターとして有名なジョルジュ・ムスタキです。
そうです。
船村氏は、ビートルズの才能に気づいただけでなく、海外の一流歌手まで育てたのです。
ライタープロフィール
ビートルズの熱狂的ファン
和田晋司
大阪府出身 ビートルズのファン歴ウン十年。
色んなものに手を出しましたが、唯一続いている趣味がこれです。
ビートルズの語り部として彼らの偉大さを後世に伝えていきたいと思っています。
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