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昭和レトロ の検索結果(101〜110)
日産 スカイライン

「ハコスカ」「ケンメリ」の通称でおなじみの日産「スカイライン」は、1957年に初代モデルが発表されました。
角ばったデザインから「箱のようなスカイライン」という意味で「ハコスカ」と呼ばれた3代目は、1968年に当登場。
クルマが好きな方なら「2000GT」から、レーシング仕様のスカイラインをそのまま市販化した「GT-R」も懐かしいですよね。
つづいて、「ケンとメリーのスカイライン」のテレビCMが社会現象となった「ケンメリ」こと4代目は、1972年に登場。
流線型で洗練されたデザインは多くの若者に受け入れられました。
ニュートラ

ニュートラ(ニュー・トラディショナル)は、1970年代半ばから80年代にかけて、女子大生やOLを中心に流行した独自のトラッドスタイルです。
神戸の「お嬢様ファッション」が起源で、「きちんと感」のあるコンサバなスタイルに海外ブランド品を組み合わせるのが基本。
エルメスのスカーフや、ルイ・ヴィトン、フェンディなどの高級ブランドバッグが必須でした。
ファッション誌「JJ」が「ニュートラ」を大々的に特集していて、女子大生のバイブルでしたね。
真知子巻き

昭和28年に公開された映画『君の名は』の主人公の氏家真知子さんが劇中で披露したスカーフの巻き方がそのまま、真知子巻きと言われ使われるようになりました。
真知子さんが身につけていたファッションやスカーフは当時大ブームだったそうです。
スカーフを羽織りみぞおちあたりで肩むすびをします。
後ろから頭を覆うように被せ最後は先端を首の後ろで結んだら完成です。
顔を隠したり風を防いだりする効果がありますのでぜひ挑戦してみてくださいね。
スズキ アルト
「アルト47万円」のキャッチコピーで軽自動車の歴史を切り拓いたスズキ「アルト」は、1979年に初代モデルが登場。
物品税が非課税となる「商用車」のメリットを活かし、「実質前席2人乗り軽乗用車として機能する軽商用車」という設定、装備のシンプルさと徹底したコストダウンを追求し、新車としては衝撃的な「47万円」という価格で販売されました。
1987年には、ハイパワー軽自動車の先駆けとなる「アルトワークス」が登場。
当時の軽自動車では異例のターボチャージャーとインタークーラーを搭載したDOHCエンジンの車でした。
昭和の初期の水洗トイレの水をためたタンクは、どこに設置されていたのでしょうか?
水洗トイレは昭和30年半ばから、普及されたそうです。
頭上にタンクがあり、鎖を引っ張るとタンクにたまった水が流れてくる仕組みでした。
現在ではあまり見なくなりましたが、昭和40年代の建築に多いようです。
高いところから水を流すので、勢いよく流れてくるそうですよ。
学校給食の主食は、昭和時代では何だったでしょうか?
かつての学校給食は、パンが主食としてよく提供されていました。
理由としては、戦後の応援物資の中に多量の小麦があったこと、パン職人の育成を強化などがあげられます。
さらに、戦後から数年間、学校給食用に出せる米の入手は困難だったため学校給食の主食にはパンが多く提供されました。
第一回紅白歌合戦で「長崎の鐘」を歌い、白組の大トリを飾った歌手は誰でしょうか?
第1回紅白歌合戦が行われたのは、昭和26年1月3日のこと。
記念すべき第1回の白組大トリを飾ったのは藤山一郎さん、曲目は代表作の一つとして知られている『長崎の鐘』でした。
その他の出演者は『桑港のチャイナ街』を歌った渡辺はま子さん、『湯の町エレジー』を歌った近江俊郎など。
流行歌は、その当時の出来事を鮮明に思い出させてくれることがあります。
クイズで出題するのと合わせて、数曲流しながら思い出話で盛り上がるのもよいのではないでしょうか。
1946年の広島

1946年の広島は、原爆投下から一年がたったものの、街はまだ深い傷跡を残していました。
市の中心部が一面の焼け野原で、かろうじて立ち残った建物がその惨状を物語っていました。
がれきの中で、仮設住宅やバラックが建てられ、人々は少ない物資での生活を強いられながらも、少しずつ日常を取り戻そうとしていました。
学校や商店も徐々に再開の動きがみられ、復興への小さな一歩が始まった時期です。
希望と悲しみが交差する、再生の原点ともいえる一年でした。
現在の目覚まし時計は電池で動いていますが、昭和はなにで動いていたでしょう?
身近な家具や家電が時代とともにスタイリッシュになっているイメージですが、そこにある機能も実はさまざまな変化をとげています。
そんな生活に欠かせないものの中から目覚まし時計に注目、昭和の時代はどのような仕組みだったでしょうか。
目覚ましに限らず、何で動く時計があったのか、昔の機械の仕組みを想像すれば、答えに気付ける人もいるかもしれませんよ。
答えはぜんまい式、少なくはなっているものの、消えた技術ではないのでこれをきっかけに探してみるのもオススメです。
パンチパーマの「パンチ」は何のことでしょうか?
唐突ですが、パンチパーマの「パンチ」ってなんのことなのでしょうか?
答えは、「『平凡パンチ』という雑誌の名前」です。
細かく、硬いカールがかかった短髪のパーマであるパンチパーマは、1970年代、北九州市の理容師に考案されました。
それが関西の利用器具商社によって、当時大流行していた雑誌『平凡パンチ』にあやかって「パンチパーマ」と命名されたのだそうです。
威圧感があり、ケンカをしても崩れにくい髪形として特にコワモテの方たちに人気が広がったパンチパーマ、さすが由来もパンチの効いた話ですね!
昭和レトロ の検索結果(111〜120)
ロッキングオン
昭和の音楽カルチャーを象徴した雑誌『ロッキングオン』は、当時の若者たちにとって欠かせない存在でした。
洋邦の注目アーティストやライブレポート、インタビュー記事を通して、音楽への熱気やカルチャーの息吹を誌面に詰め込み、写真やグラフィックからはライブハウスの雰囲気が伝わります。
当時の誌面を手に取れば、熱狂と自由が交差する昭和の空気が鮮やかによみがえるのです。
『ロッキングオン』は現在も発刊され続けていますが、とりわけ昭和の時代では、音楽カルチャー史の中で特別な輝きを放った一冊として、音楽好きの心をつかみ続ける一冊でありました。
昭和30年代に「三種の神器」と呼ばれた家電製品は白黒テレビ、冷蔵庫、あと一つは何?
昭和30年代の初めの頃、白黒テレビと冷蔵庫と洗濯機が「三種の神器」として一般家庭に普及し始めました。
当時はとても高価な電化製品でテレビは街頭で見るものでしたがこの頃から各家庭に設置されるように。
昭和30年代後半あたりからはカラーテレビが普及し始めました。
竹の子族

竹の子族のファッションは原色系の派手な衣装、色とりどりのはちまきにサングラス、派手なメイク、学校の上履きをはいているのがが特徴です。
1980年代前半、原宿の歩行者天国ではラジカセで音楽を流しながらステップダンスを踊る姿が人気でした。
竹の子族の名前は原宿にあったブティック「竹の子」が由来で、そこで販売していた衣装を着て踊る若者たちを「竹の子族」と呼ぶようになったそうです。
芸能人で竹の子族出身といえば、沖田浩之さんが有名ですね。
男はつらいよ

「フーテンの寅」こと車寅次郎がはまり役、渥美清さん主演の「男はつらいよ」は、1969年に第一作が公開、これが高い評価を得てシリーズ化、27年間で48本も公開された国民的人気映画です。
東京の下町・葛飾柴又を舞台に、全国を旅する主人公の寅さんが柴又へ帰ってくると、シリーズ各作品で登場するマドンナとの淡い恋の出会い、その恋が実ることがなく、また旅に出ていくという定番のストーリーです。
寅さんの「人情の機微」、葛飾柴又や寅さんが旅をする「古き良き昭和の日本の風景」が、この映画の見どころですね。
ハーゲンダッツ
少しだけ高級なアイスというイメージがあるハーゲンダッツは、コンビニやスーパーで買えるということもあって長く愛されています。
そんなハーゲンダッツが日本に登場したのは1984年、日本法人が設立されて青山に第1号店がオープンしたのが初ということで、昭和から愛されているアイスクリームですね。
それまでの日本で、アイスは子供の食べ物という考え方が根付いていたことに注目して、大人にも向けた高級路線に向かったことも成功のポイントかもしれませんね。
フレーバーのバリエーションもヒットの理由、テンポよりもパッケージがより愛されているような印象ですよね。
二十四の瞳

「二十四の瞳」は、先生と子どもたちの絆を描いた感動作品です。
瀬戸内海の小さな島を舞台に、新任の女性教師と12人の子どもたちの交流を通して、戦前・戦中・戦後を生き抜く人々の姿を描きます。
時代の移り変わりと人生の哀しみ、子どもたちの成長や別れを見つめる中で、戦争が奪う平和や日常の尊さがしみじみと伝わります。
自然と人間の温かさ瀬戸内の美しい風景、素朴な村の人々の暮らしが丁寧に描かれ、昭和の日本の原風景が心に残ります。
昭和の子供たちは、お菓子を食べながら見るのが定番だった物は何でしょうか?
子供たちの遊びや楽しみも時代とともに変化、中には徐々に数を減らしていったものも存在していますよね。
そんな現在は数を減らしてしまった子供の楽しみの中でも、昭和時代に特に人気だったお菓子を食べつつ見ていたものといえば何でしょうか。
お菓子を食べつつという部分に注目、動きながらではなくみんなで集まって、じっくりと眺めるという姿をイメージすると、それを知っている人は答えが思い浮かぶかもしれませんよ。
答えは紙芝居、自転車に紙芝居とお菓子をつんでやってくる紙芝居のおじさんのもとにみんなが集合、せんべいや水あめをお供に紙芝居を見る子供たちという光景は、昭和の懐かしさを感じる風景ですよね。
昭和時代ではテレビは一家に何台だったでしょうか?
みなさんのお宅には、テレビは何台あるでしょうか?
最近は一人1台と言っても過言ではないようですよね。
昭和時代ではテレビがたいへん高価なときがあり、一家に1台でした。
家族が多いご家庭だとチャンネル争いもあったそうですよ。
テレビが普及されたばかりの頃は、テレビを購入した近所のご自宅にみんなで見にいった話も残っています。
連絡をとるために、とあるものを昭和時代では多くの人が持ち歩いていました。とあるものといえば何でしょうか?
現在は、携帯電話の普及により連絡を取り合うことも気軽にできますよね。
ですが昭和時代は、屋外や外出中に電話をしたいときは公衆電話を利用することが多い時代でした。
そのため多くの人、硬貨がなくても電話をかけられるテレフォンカードを持ち歩いていました。
バニラブルー
長い期間みなさんに愛されてきたアイスクリーム!
バニラブルーをご紹介します。
昭和28年代から発売されていたバニラブルーは、パッケージを何度か変更しながらも、長い期間発売されていました。
現在では北海道で購入できるようですが、期間や季節によるのかもしれませんね。
当時、お小遣いを握りしめてバニラブルーを買いに行ったという方もいるのでは。
アイスクリームを食べた幼い日の懐かしい思い出で胸がいっぱいになりますよね。
たまには、思い出して懐かしむのも良い時間になるのではないでしょうか。

