今は亡き日本のギタリスト、hide(ヒデ)を皆さんご存じでしょうか?
「名前は聞いたことある!」って人も多いと思いますが、わたくしが音楽の世界に飛び込んだきっかけも、実はこのギタリストでした。
「hideってどんな人なの?」
正直紹介しきれないのですが…よく知らない人にもわかりやすくご紹介できればと思います。
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hideって?

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hide(ヒデ)、本名:松本 秀人(まつもと ひでと)1964年12月13日〜1998年5月2日。
1987年〜1997年までX JAPAN(旧名:X)のギタリストとしてHIDE名義で活動し、1989にアルバム「BLUE BLOOD」でXのメンバーとしてメジャーデビュー。
1993年からは、hide名義でソロ活動も開始し、1997年のX JAPAN解散後はhide with Spread Beaver、zilchでの活動を開始しますが、1998年5月2日に急逝。
あの派手な容姿からは想像つかなく、小学校時代は、比較的色白で大人しいタイプ。
体重も当時は太っており、休み時間にグラウンドを走らされるなど、本人自身はコンプレックスだらけだったようです。
hideが小学校のときの先生はこう語ります。
「テレビに出てきてX JAPANとして活躍する姿は秀人くんは夢にも思わなかった」
そんなhideの人生を変えたのが中学2年生のときのロックとの出会い。
友人に借りたKISSのレコードがきっかけで、ロックの世界に飛び込むようになります。
ド派手なファッショインやメイクに、今まで聴いたこともないサウンド(当時の日本はフォーク全盛期の時代)。
ロックの中でもカテゴライズにとらわれず、パンクのThe Clashなども王道ロックと同時に聴いていたとのことで、hideの音楽スタイルが始まったのはここが原点かもしれません。
中学3年生のときにhideは、大好きな祖母に買ってもらった、Gibsonのレスポールを手に入れることになります。
初めて買ったギターがGibson
当時でも今でもギターの中では高級ギターになり、わずか15歳で手に入れるのは珍しいと思います。
高校進学後、学校が「エレキ禁止」の環境だったため、バンド活動はまだできずにいました。
バンドをやりたい。
その気持ちから、地元横須賀ののどぶ板通りに出入りするようになります。
そして、バンドをやるために2ヶ月で20キロのダイエットに成功。
どぶ板通りは米軍基地が近所にあることから、アメリカの文化や情報がいち早く入ってきており、刺激だったとhideは語ります。
そこで出会った仲間と組まれたサーベルタイガーと呼ばれるバンド(X加入前に活動した唯一のバンド)を結成し、オリジナル曲を作ってライブ活動をはじめることになります。
祖母が美容院を営んでいた流れから、高校卒業後は、美容学校に通い、その卒業後には美容師をしながらバンド活動も続ける日々になります。
当時hideが組んでいたサーベルタイガーは、攻撃性があるサウンドとルックスで地元を中心に話題のバンドへとなります。
ただ、もっといいバンドにするためにはメンバーチェンジを繰り替えさないといけないという壁にぶちあたります。
一緒に頑張っている仲間をこれ以上裏切りたくない。もうバンドはやらない。
そう思ったhideはサーベルタイガー解散を決意します。
そのタイミングでバンドメンバーとして誘ったのが、XのリーダーYOSHIKI。
「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心したが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入することになる。
これをきっかけに再びバンド活動を再開することになります。
奇抜なメイク、激しいサウンドでみるみるうちにファンを獲得し、さまざまな記録を塗り替えていきます。
1988年4月、1作目のアルバム『Vanishing Vision』をリリース。
発売1週間で、当時としては異例の初回プレス分1万枚を完売した。
『Vanishing Vision』は、メジャー・レーベルから発売される可能性もあったが、YOSHIKIは「インディーズでまだ何も残していない」として、敢えてエクスタシーレコードからリリースした。
並行して数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進め、Xを巡ってレコード会社の間で争奪戦となったが、最終的にCBSソニーと契約。
XがCBSソニーと契約した理由は、交渉にあたったCBSソニーのディレクター達があまりに横柄な態度をとっていたためである。
これにメンバーが怒りを覚えたため、交渉は冷静に対応できるYOSHIKIが担当したといわれる。
契約金や契約期間などの条件が最も低かったことも、「絶対に売れてこいつらを見返してやる」という反骨心が生まれ、契約を決めた一因となった。
そして1989年2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でソニーよりメジャー・デビュー。
1990年2月、初の日本武道館ライブなど全国ツアーも成功させ、1992年のドームコンサートでは僅か3日間で11万人を集めるという異例の快挙を成し遂げて、年末には紅白歌合戦に出場し、当時ロックに関心がない人たちへもアピールし一躍お茶の間のバンドへと成長していきます。
1993年からはソロ名義でも活動。
ビジュアル、サウンド、X JAPAN以外での表現の多様性。
人気絶頂の中、海外進出も視野に入れ、活動していく中1997年にX JAPAN解散。
hideは当時このようなコメントを残しています。
「みんなは、XJAPANが解散したって思っているかもしれないけど、オレは解散したなんて思ってなんかいないもの!」
「だから、テレビとか、ラジオとか、なんとかのインタビューで、司会者や、記者たちが、オレにいろいろ質問するだろ~」
「そんときさ~・・・」「いつも、決まったように、《元XJAPANのhideさんでした》とかよ~」「いうじゃん?」
「だって、おれXJAPANが解散したなんて思ってないもん」
「だっから、すっごく頭にくるんだよな~」
「XJAPANは一時、小休止しているんだって!!」
「だから、いつかまた、みんなが揃って一緒に演奏(ヤル)って!!」
ただ解散の発表のショックは計り知れなく、多くのファンが悲しむことになります。
そんな中、hide with Spread Beaver名義でROCKET DIVEを発表することになります。
X JAPAN解散後初のソロシングルであり、当時解散のショックで落ち込むファンへ向けたhideからのメッセージが込められている。
そのため「一刻も早くファンへ届けたかった」とのhideの言葉通り、X JAPANの最終公演「THE LAST LIVE」から1ヶ月足らずで発売された。
そしてzilch名義では、海外での視野に入れ活動していく中、1998年5月2日に突然の急逝。
死後11日後に発表された、ピンクスパイダーは、hideとして自身初、かつ唯一のミリオンセラーシングル。
その後アルバムリリースやツアーなどの構想もあり、残されたメンバーや様々なミュージシャンによって活動は継続されました。
真夏のロック・フェスティバルである「サマーソニック」の前身フェス「beautiful monsters tour」ではマリリン・マンソンとの共演も予定されていた。
hideのここがすごい

http://www.hide-city.com/
ギターをおもちゃのように扱う・濃密なライブパフォーマンス
初期のギターのプレイスタイルは、歪ませたギターに高速の刻み・早弾きといったヘビィメタルスタイル。
相当練習しないと弾けないフレーズやリズムだらけで、始めたときから身から離さず、ギターが大好きでずっと弾いていたことが理解できます。
ギターっていうのは弾けば弾くほどうまくなるんだなってやっぱりそういう時に感じる、だから練習は学校から帰ってギターを弾いて飯食ってギターを弾いてって言うのが基本姿勢だと思う。
hideのプレイスタイルは、単純に上手いだけではありません。
さまざまなエフェクトを使った音色、レコーディングでの録音テクニック、プレイ以外の部分にもこだわりを詰め込こんでいます。
ギターを演奏する上で必要な知識や技術のほとんどが出てきており、まるでロックの教科書なような存在です。
ライブでのパフォーマンスや音作りにも、それは見事に表れています。
楽曲・ファッションの多様さ
X JAPAN、ソロ名義ではhide、hide with Spread Beaver、zilchで活動されていましたが、過去発表した楽曲の多様さから、hideが音楽史に与えた功績の大きさが伺い知れます。
制作の仕方、レコーディング技術、日本語の歌詞へのこだわりまで、全神経を使って曲制作されています。
ファッションにおいては、奇抜なメイクや髪型が、当たり前かのように表現されています。
「考えてやっていると思われるけど、あまりなんも考えてやっていない」とhideは語っています。
視面的なところもきっかけになりファンになられた人も多いのではないでしょうか。
「ヴィジュアル系」という呼称はX JAPANの『BLUE BLOOD』のキャッチコピー「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」が起源だとされることが多い。
星子誠一は、雑誌SHOXXを創刊する際に、HIDEの言葉を引用して「ヴィジュアル&ハードショック・マガジン」というサブタイトルをつけ始めたのが始まりだと主張している
WHAT’S LEMONeD|LEMONeD SHOP
作って → 届ける → すぐ次のものを作る
この前向きすぎるチャレンジ精神とスピード感には圧倒されます。
容姿から想像がつかない優しさ
バンドメンバーやスタッフへの気づかい、そしてファンに対する行動力は、高く評価されています。
アーティストと呼ばれる人たちは多かれ少なかれ、普段の自分とアーティストの自分の二面性を兼ね備えているものだが、hideはとくにその差が激しかった。
メイクをして衣装を着てからも、楽屋にいる時には普段と同じようにスタッフにジョークを飛ばしている。
それが、いったん、スポットライトを浴びたり、カメラのシャッターが動きだした途端、瞬時にしてロック・スターの表情に変わるのだ。
参考:【感動エピソード】 X JAPAN hideと難病の少女との交流 | LAUGHY [ラフィ]
参考:2人が語るhide:LUNA SEA J「俺にとっては兄貴のような存在」
最後に
正直まとめて、hideの魅力を書ききれません…が
後輩・先輩を問わずのミュージシャンからも絶大な支持され、hideが音楽シーンに与えた衝撃は、いまも伝説となっています。
今もさまざまな人の心で生き続けており、わたくしもその一人です。






