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冬の日午後 の検索結果(31〜40)
十二月 上野の北は 静かなり正岡子規
12月といえば師走、一年の最後の月です。
そんな師走は文字通り、どこか慌ただしさを感じますね。
正岡子規も同じで、師走の慌ただしさを感じながら詠んだ句が「十二月 上野の北は 静かなり」でした。
正岡子規は当時、上野の北にある根岸に住んでおり、上野の賑やかな喧騒とは対照的な自分の環境の静けさを表現しています。
病床についていたため上野の喧騒には加われず、病気を静かに受け入れながらも、一抹の寂しさを感じていたのでしょう。
柚子風呂に 浸す五体の 蝶番川崎展宏
12月の冬至の頃、温かい家庭の風景をユーモアを交えて川崎展宏が詠んだ俳句です。
「柚子風呂」とは、冬至の日に柚子を浮かべて入るお風呂のことで、体を温め、無病息災を願う日本の伝統です。
「五体の蝶番」とは、体の関節を蝶番にたとえ、自分の体を丁寧に温める様子を面白く表現しています。
川崎は、冬の寒さの中でも、家庭の温もりや日常の小さな楽しみを大切に感じていたのでしょう。
12月の寒い日に、柚子の香りと温かさで体も心もほっとする、ユーモアとやさしさが伝わる一句ですね。
冬景色

1913年の『尋常小学唱歌 第五学年用』に掲載された文部省唱歌です。
尋常小学唱歌」第五学年用』に掲載された文部省唱歌。
冬のはじまりの景色を歌った美しい唱歌で、2007年には『日本の歌百選』にも選ばれています。
霧が消えて秋の終わりが告げられる様子や花が柔らかな日差しに誘われて時季外れに咲く情景は、四季を感じられる美しい日本の風景ならでは。
寒いと室内にこもりがちですが、『冬景色』を聴くと冬を探しに外に出てみたくなりませんか?
雪と雪 今宵師走の 名月か松尾芭蕉
こちらは松尾芭蕉が、師走の夜空を眺めながら詠んだ一句です。
「雪と雪」とは、降り積もる雪と、雪に反射する光や景色の重なりを表していると考えられます。
「今宵師走の名月か」とあるように、師走の忙しい時期でも、夜空には静かで美しい満月が輝き、雪景色とともに幻想的な光景を作り出しているのが伝わってきますよね。
芭蕉は、この句を通して、年の暮れの慌ただしさの中でも自然の美しさや静けさに心を留める感覚を表しています。
12月初めに読めば、冬の訪れと月夜の静かな喜びを味わえますよ。
しばらくは 柚子湯に一人 とっぷりと
静かな時間の流れを、感覚的に捉えた一句です。
季語の「柚子湯」によって、冬至の夜や冷えた体を思わせる場面が浮かんできます。
「しばらくは」と置くことで、急がず、あえて湯に身を委ねる姿勢が伝わってきますね。
「一人」と明示している点が効いており、にぎやかさとは対極にある落ち着いた時間が強調されています。
「とっぷりと」という言葉は湯の深さだけでなく、心まで沈めていくような感覚が感じ取れます。
冬ならではのぜいたくなひと時がはっきりと形になった、静かな余韻を残す俳句です。
冬の日午後 の検索結果(41〜50)
独楽のしん 真っすぐに立つ 冬日和
コマ遊びは冬の遊びとして、古くから日本の子供たちに親しまれている伝承遊びです。
寒くても、暖かな室内で気軽にできますよね。
お正月や、友達とおこなうこともあるかと思います。
コマには多くの遊び方があるのも魅力の一つなのではないでしょうか。
俳句では、しんが真っすぐに立ち安定して回っているコマを見て、嬉しい気持ちと冬の日々を重ねていますね。
ちなみに、コマは縁起物としてお正月に回すそうですよ。
回る様子から、お金や物事が円滑に回ることに通じるからだそうです。
蕭条として 石に日の入る 枯れ野かな与謝蕪村
与謝蕪村が詠んだ句で、荒れ果てて草木も枯れた冬の野原が寂しく静かな様子を描いています。
枯れ野にある石に、冬の夕日が差し込んでいる光景ですが、その物寂しい雰囲気の中に、冬の終わりや静けさが読み込まれているのではないでしょうか。
蕭条という漢語がさびしさを増加させ、強調する役目を担っています。
冬の句はやはりわびさび感が強いものが多いですが、そんなさびしさのなかにうつくしさを見いだすのが日本人だなあという感じがしますね。
霜柱 昨日の夜が そこにある
冷え込んだ時の朝に見られる霜柱。
地面を氷の柱がニョキニョキと押し上げて、その上を歩くとザクザクと音がしますよね。
「ザクザク」とした音と、感覚が面白くて、霜柱を踏むことが好きな子もいますよ。
霜柱は冬にいつも見られる訳ではなく、霜柱ができる条件というものがいくつかあるそうです。
条件の一つに、地表面の温度が0℃以下で、土の中が0℃以上があります。
土の中が0℃以下だと、霜柱はできないそうです。
さまざまな条件がうまくそろってできた霜柱から、夜や朝方の様子を想像する楽しさもありますね。
菊の香や 月夜ながらに 冬に入る正岡子規
正岡子規が詠んだこの句は、菊の香りがする月夜だが、もうよく考えてみたら冬に入っているんだな、という意味です。
実は3つの季語が使われている珍しい句で、月、菊は秋の季語で、秋のことを詠った内容なのに、最終的には冬のことを詠んでいます。
季重ねといわれる手法だそうですが、不自然に感じさせないテクニックはすばらしいです。
最終的には冬の句であることから、冬に入るが本当の主語といえるでしょう。
いやらしくなくテクニックを使うのはすてきですね。
うつくしき 羽子板市や 買はで過ぐ高浜虚子
この句は、高浜虚子が晩秋から初冬、12月の年の瀬の風物詩を感じながら詠んだ俳句です。
「羽子板市」とは、正月に向けて羽子板を売る市のことで、色とりどりの華やかな羽子板が並びます。
「うつくしき」と感じながらも、「買はで過ぐ」とあるように、今回は手に取るだけで買わずに通り過ぎる様子を描いています。
虚子は、華やかさや楽しさを眺めつつ、あえて自分は参加せず、季節の移ろいを静かに味わう気持ちを込めたのでしょう。
12月の街角で、年の暮れの準備をそっと感じさせる、穏やかで優しい気持ちになれる一句です。

