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日本のジャズシンガー。国内ジャズシーンを代表するジャズボーカル

世界に通用する日本のジャズ・ミュージシャンは多く存在しておりますが、代表的な日本のジャズシンガーと言われてすぐに名前を挙げられる方は、意外に少ないかもしれません。

日本におけるジャズシンガーの歴史は、それこそ戦前から始まったものです。

戦後になると、ジャズを下地とした歌謡曲のヒット曲が次々と生まれ、大衆に愛されるスターも多く誕生しました。

そんな歴史を踏まえつつ、今回の記事では幅広い視点で日本のジャズシンガーをピックアップ!

ジャズの素養を持つ往年の大スターから純然たるジャズシンガー、実はジャズを歌っていた意外なあのアーティストまで、バラエティー豊かにお届けします!

日本のジャズシンガー。国内ジャズシーンを代表するジャズボーカル(1〜20)

I don’t know why笈田敏夫

笈田敏夫さんの名前の漢字を、ぱっと見ただけでさらりと読める方は多くはないかもしれませんが、読み方は「おいだ」です。

ドイツはベルリン生まれの笈田敏夫さんは、戦後の日本を代表するジャズ・シンガーの1人であり、1953年から8年連続で紅白歌合戦に出場を果たしてします。

不祥事を起こしてしまい、芸能界から追放された時期もありましたが、死後に贈呈された2003年度の日本ジャズヴォーカル賞及び第45回日本レコード大賞の特別功労賞をはじめとして、数々の栄誉ある音楽賞のみならず、1995年には勲四等瑞宝章を受章するなど、日本の文化史において重要な存在として記憶され続ける偉人なのですね。

あのビング・クロスビーさんの影響でジャズを歌い始めたという笈田さんが持つ深みのある艶っぽい歌声、蝶ネクタイとタキシードでばっちり決めたダンディなスタイルは、まさに戦後の日本ジャズの第一人者と呼ぶにふさわしい存在感と実力の持ち主です!

ムード・スウィングスAKIKO

名門ジャズレーベルのひとつである、ヴァーヴ・レコードと初めて契約した女性の日本人ジャズシンガーとして注目をあつめたakikoさん。

ムーディーでオシャレな歌が魅力です。

ジャズボーカリスト活動だけにとどまらず、エッセイを発表したり、アパレル・ブランドとのコラボレーションをおこなったりと、幅広い分野で活動しています。

この活動を通して、一部の人たちにのみに愛好される傾向のあるジャズをより広い層に紹介する効果があるのではないでしょうか。

悲しきハート弘田三枝子

1963年 弘田三枝子 「悲しきハート」
悲しきハート弘田三枝子

弘田三枝子さんは、その力強く圧倒的な歌唱力とジャズという出自ならではのたくみなスキャットを武器として、多くの有名ミュージシャンへ影響を及ぼした方です。

7歳という年齢でティーブ・釜萢さんが設立した「日本ジャズ学校」に通い、ジャズの教育を受けたという経歴を持ち、10代の若さで洋楽のカバー曲『子供ぢゃないの』をリリース、デビューを果たします。

洋楽を和製ポップスとしてカバーした楽曲を多くヒットさせた彼女は、その後のGSブームなどで一時失速してしまいますが、作詞になかにし礼さん、作曲と編曲を川口真さんが担当して1969年にリリースした『人形の家』が大ヒットを記録。

再びシーンのトップ・アーティストへと返り咲きます。

若い音楽ファンにも知って頂きたい、日本の戦後を代表する偉大なシンガーですよ!

Sioux City Sueティーブ・釜萢

日本人のジャズシンガーといっても、ずいぶん昔に活躍していたティーブ・釜萢さん。

戦後の日本にジャズをひろめた人の一人で、なんとかまやつひろしさんの父親にあたります。

1911年にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス市郊外で日系アメリカ人2世として生まれた彼は、戦前に日本に渡り、戦後には1950年に日本初のジャズ音楽専門学校である「日本ジャズ学校」を設立しました。

アメリカで育ったため、生涯ほとんど日本語は話せなかったそうです。

東京ブギウギ笠置シヅ子

「ブギの女王」として知られ、戦後を代表するシンガーの1人である笠置シヅ子さん。

戦前から舞台などで活躍し、日本のジャズ・シーンにおいて多大な影響を及ぼした作曲家、服部良一さんと出会い、ジャズ歌手として売り出し始めます。

本格的に大衆へと知られ始めたのは戦後のことで、先述した服部さんが作曲を手がけて1947年にリリースした『東京ブギウギ』が大ヒットを記録。

戦後の日本を象徴する楽曲として、現代まで愛され続ける定番の名曲となりました。

ブギのリズムに乗って激しく踊りながら歌う笠置さんの姿は、戦後の開放的な空気を顕著に表しているとも言われております。

日本のジャズの歴史や当時の日本のカルチャーを知る上でも欠かせない、偉大な方ですよ!