沢田研二の名曲・人気曲
昭和を代表する男性歌手、沢田研二の楽曲を紹介します。
「勝手にしやがれ」「TOKIO」などリアルタイムで聴いていない方でも1度は耳にしたことがある楽曲が複数ありますよね。
沢田研二が活動を始めたのはグループサウンズ全盛期の1960年代で、グループサウンズの中心的存在のザ・タイガースのボーカルとしてデビューしました。
そんな沢田研二のあだ名といえば「ジュリー」ですが、その由来は沢田研二が女優のジュリー・アンドリュースのファンだというところからきているそうですよ。
それでは昭和歌謡シーンを席巻した名曲の数々をお聴きください。
沢田研二の名曲・人気曲(21〜30)
コバルトの季節の中で沢田研二

シングル第17作。
自身が作曲を手掛けた最初のシングル曲で、作詞の小谷夏とはドラマのプロデューサー久世光彦の変名。
ドラマと「時の過ぎ行くままに」のヒットの後、2度にわたって起こした暴力事件による謹慎明けにリリースされました。
爽快な中に哀切の漂う曲調やです・ます調の歌詞など、一連のジュリー作品の中では異彩を放っている佳作。
ス・ト・リ・ッ・パ・ー沢田研二

シングル34作目。
衝撃的なタイトルとは裏腹に、楽曲はオーソドックスなジュリー調。
衣装もジュリーらしくけばけばしいのですが、その反面、従来のような無邪気さ、気負い、痩せ我慢といった意識を含めた「男らしさのアピール」的表現は影を潜めつつあります。
第23回日本レコード大賞金賞受賞。
沢田研二の名曲・人気曲(31〜40)
憎みきれないろくでなし沢田研二

シングル第21作。
前作の「MEMORIES」が英語詞による海外向け戦略の作品だったため、実質的には「勝手にしやがれ」の次作であり、同曲で喝采を浴びたジュリーワールドがさらに追求された楽曲、衣装、振付となりました。
実は「勝手にしやがれ」の代替曲として大野克夫が用意していたもので、二番煎じの感は否めませんが、まずまずのヒットを記録しました。
TOKIO沢田研二

シングル29作目。
16作目の「ウィンクでさよなら」以来、4年ぶりに加瀬邦彦による作曲で、当時売れっ子コピーライターとして名をはせた糸井重里による歌詞が鮮烈な印象を与えました。
楽曲に負けず、電飾を施したミリタリー調のコスチュームに巨大パラシュートを背にするというド派手な衣装が話題を呼びました。
後年カブキロックスが「お江戸-O・EDO-」としてヒットさせたのをはじめ、カバーされることも多い楽曲です。
この曲を最後に、長年バックバンドを務めた井上堯之バンドが解散しました。
6番目のユ・ウ・ウ・ツ沢田研二
シングル第37作。
ここしばらくの楽曲はパフォーマンスよりもロックバンドテイストの強い傾向となっていましたが、これもそうした一連の中にある作品。
史上3人目となるオリコン週間ランキングベスト10入り30曲を達成。
また累計売上枚数は2年前に引退していた山口百恵を抜き第1位に躍り出て、以後9年間その地位を守りました。
Long Good-bye沢田研二

1971年1月24日のザ・タイガース解散以来交流の途絶えていた、ドラマー瞳みのるへ向けて発信されたメッセージソング。
2008年、還暦を迎えた沢田がNHK「SONGS」で歌ったことをきっかけにその3年後、瞳の復帰〜ザ・タイガース再結集が実現しました。
実際の出来事をを交えた瞳への呼びかけに終始する歌詞となっており、人づてにこの番組のことを聞いた瞳は感激して復帰を考えるようになったというエピソードがあります。
白い部屋沢田研二
1975年にリリースされたソロ15枚目のシングルです。
バックバンドは、ケニー・ウッド・オーケストラが担当しています。
トランペットソロのイントロからはじまり、はしばしでフィーチャーされています。
ストリングスなども使用され、ドラマチックに仕上がっています。








