広島の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
広島県に伝わる民謡の特集です。
民謡はその土地に住む人たちの生活の営みから誕生し、今日まで受け継がれてきたものです。
特に広島県の民謡は本特集で調べてわかったことですが、他府県と比べると極めて多くの『音頭』と名の付く民謡が存在しており、盆踊りの映像などもたくさん見つけることができます。
きっと昔から広島県の人たちは地域伝承を歌や祭りで親しまれて楽しく歌い踊られてきたのかもしれません。
この記事では、広島県に昔から伝わる民謡をご紹介します。
民謡を聞きながら受け継がれている『音頭』というものに込められた意味を読み解いてもおもしろいですよね。
- 【広島の歌】歌い継がれる故郷のこころ|時代をこえて愛される名曲を厳選
- 宮城の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 【子育て】親子で触れ合い!手遊び歌・わらべうたまとめ
- 福島の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 岩手の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 【秋の童謡】秋のうた・唱歌・わらべうた。秋に歌いたい名曲集
- 実は怖い童謡。聴くとゾッとする子どもの歌
- 大阪の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 沖縄の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 熊本の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 徳島の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 長崎の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 秋田の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 富山の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
- 北海道の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ
広島の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ(11〜15)
尾道音頭

瀬戸内海に面した尾道、その地は昔から物流が行き交い集落は栄えていました。
戦前の港祭りに参加したひとの間でよく歌い、踊られていたというのが『尾道音頭』です。
そこからこの曲が世間に知れ渡り、日本歌謡界の大御所によってこの歌が受け継がれてきました。
この曲はご当地ソングとして歌われていたのですが、聴いているとまさに尾道の良さを存分にアピールしているのがよくわかります。
そして歌のかいがあってか尾道の街並みは観光の名所としてしられ、映画などの舞台などででもよく撮影に使用されたりして有名なんですよ。
広島の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ(16〜20)
ソーラン節

もとは北海道の日本海沿岸の民謡で、発祥地は後志の積丹半島から余市郡にかけての地域と言われています。
主にニシン漁の歌として使用され、漁業の成功や大魚を願うひとたちの気持ちや強さを表現しているそうです。
各地でもいろいろなアレンジなどがあり、地域によってとくちょうがあり楽しめます。
塩原の大山供養田植

お囃子に合わせて田植えをする『塩原の大山供養田植』。
広島県庄原市東城町周辺で古くから親しまれている民謡で、国の無形民俗文化財に指定されています。
太鼓を持った先導役、そのリズムと歌に合わせて、大人数で一斉に田植えをおこなっていたそう。
村の中での共同作業、ある種の一大イベントをスムーズに進めるために根付いた文化なのかもしれませんね。
曲を知らない方でも、聴けばきっと郷愁、ふるさとへの思いが湧いてきますよ。
ヒロシマの有る国で

世界平和、反戦を訴える楽曲です。
福島県喜多方市出身のシンガーソングライター山本さとしさんによる作品で、1983年に発表されました。
もしかしたら小学校、中学校の授業で歌った経験のある方もいらっしゃるかもしれませんね。
「戦争による被害の大きかった広島県だからこそ、今世界で起こっている戦争の火種を消すのも我々だ」という強い意志が感じられる歌詞が印象的。
地球と人類の行く末を案じる、心をうがつメッセージソングです。
広場と僕らと青空と

1971年春に東京都知事選革新陣営の広場と青空構想にイメージを得て作られた歌。
当時早大合唱団所属学生だった作者の黒坂正文が、前年秋の同団集団創作「炎の叫び」に意識してせいさくにいどんだのが始まりと言います。
早大合唱団は、革新の願いを伝える意味を考えて明るい曲調に振付をつけ、それが全国にも広まっていきました。
広島県民謡バイ流し

吾妻山にある夏山登山の安全を祈願する神事式にて行われる山開きで歌われる広島県民謡バイ流しは、比和牛供養田植の植拍子が原曲となったと言われています。
踊りは簡単なものなので地域の小学校などでのえんもくとしても使われることもあります。
広島の民謡・童謡・わらべうた。歌い継がれる故郷のこころ(21〜25)
浜子唄

この歌はその昔に山田地区に入浜式塩田の東野﨑浜が築造されて、浜子と言われる作業者が日々の過酷な労働を乗り切るために歌われていた作業歌が始まりです。
昭和26年頃より入浜式塩田が流下式製塩法に改良されてからは浜子が姿を消え始め、この曲も歌い継がれなくなってしまいました。
しかし山田三味線同好会の人によって復元され現在に至ります。