ヨハン・シュトラウス2世|名曲、定番曲をご紹介
オーストリアのウィーンで活躍したロマン派を代表する作曲家、ヨハン・シュトラウス2世。
ウィンナーワルツやチェコの民俗舞曲であるポルカなど、舞踊のための音楽を中心に作曲した彼は、「ワルツ王」や「ウィーンの太陽」と呼ばれていました。
さらに、オペレッタ曲でも傑作を生み出したことで「オペレッタ王」とも呼ばれ、オーストリアだけでなくヨーロッパ中で絶大な人気を博しました。
この記事では、そんなシュトラウス2世の名曲や定番曲をご紹介します。
ぜひ、彼の華やかな音楽に浸ってみてはいかがでしょうか?
ヨハン・シュトラウス2世|名曲、定番曲をご紹介(31〜40)
インディゴと40人の盗賊Johann Strauss II

1870年はヨハンの身内に不幸が続き、死に対して病的に恐れていたヨハン・シュトラウス2世は精神的にすっかり参ってしまいました。
創作意欲を失っていたヨハン・シュトラウス2世は周りからオペレッタの作曲を熱烈に勧められた。
オッフェンバックにもオペレッタの作曲を勧められていたこともあり、ヨハンはオペレッタへの道を進むことにした。
最初のオペレッタの曲であり、千夜一夜物語を題材とした作品です。
エジプト行進曲Johann Strauss II

当初、コーカサス地方の少数民族チェルケス人の名を冠した「チェルケス行進曲」というものでした。
スエズ運河が開通し、さまざまな作曲家が曲を提供しました。
スエズ運河の開通はヨーロッパの人々を刺激し、東方への興味を掻き立てました。
こうした雰囲気の中で、シュトラウス2世もスエズ運河開通にちなんで「チェルケス行進曲」を「エジプト行進曲」に変更しバーデン大公フリードリヒ1世に献呈しましたが、コーカサス地方というところに現在のエジプトはなく曲の感じもどちらかというとロシア系に感じます。
スペイン行進曲Johann Strauss II

明るく堂々としたファンファーレで始まる長めの行進曲で、メロディはいかにもスペイン的ですが、全てヨハン・シュトラウス2世のオリジナルです。
現在でもニューイヤーコンサートなどで時折演奏されることがあります。
ペルシア行進曲Johann Strauss II

ペルシャ(現在のイラン)の国王に捧げられた。
ロシアでの作品のタイトルは「ペルシャ陸軍行進曲」でしたが、同年の12月にウィーンので催された慈善演奏会現在のタイトルで初演が行われました。
ペルシャ王が初めてウィーンに訪れるのはその9年後の1873年のことでした。
重厚な装備の行進曲ではなく、中東をイメージできるような感じの行進曲です。
南国のバラJohann Strauss II

1880年10月1日自作のオペレッタ「女王のレースのハンカチーフ」を初演しました。
イタリア国王ウンベルト1世はこのオペレッタを大変気に入り、やがてそのことがヨハン・シュトラウス2世の耳にも伝わりは即座にこのオペレッタに登場するモチーフを編曲し「南国のバラ」としウンベルト1世にささげた曲で、「スター・トレック」でも使用されている曲です。
ヨハン・シュトラウス2世|名曲、定番曲をご紹介(41〜50)
爆発ポルカJohann Strauss II

曲の名前は、ニトロが発明されたことにより、爆発ポルカとなりました。
他にもヨハン・シュトラウス2世は流行のものを作品の中に取り入れていたようです。
当時若者の間では「爆発的」という言葉も流行しておりました。
「楽しい爆発まつり」というチャリティコンサートのために作られました。
このポルカは全曲にわたってたくさんの爆発を思わせる効果を取り入れており、とくに曲の最後には大きな爆発音が入ります。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲Johann Strauss II

宮廷から嫌われていたヨハン・シュトラウス2世が式典に便乗して作曲したのを皇帝に献上し、宮廷でのダンスの指揮をようやく許されたヨハン・シュトラウス2世は「皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲」を作曲するなどし、宮廷での仕事ができるようになりました。